昭和52年12月27日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
「迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」と仰る。ですから大きな信心とは、どの様な場合であっても、迷いが起こらんで済む信心を、いうなら大きな信心と言う言が言えるでしょう。これだけお願いしとるのに、大丈夫だろうかともう迷いが起こってくる。これは信心が小さいからだと、まず思わなければいけん。しかもそこに一心と定める。ですからいよいよ神様が分かり、神様を信じれる所からしか、大きな信心というものは生まれてこない。ただ大きなことを願う言が、大きな信心と言う事ではない。
というてまたなら大きなことを願うことが、大きな信心でもある。問題は内容だという。どんな場合であっても迷わんで済む。一心と定めてそして大きな願い。ですから、まず大きな信心をさせて下さいという願いがなされなきゃあ。痩せ細って骨皮筋衛門というような人が、いかに力を振り絞ったところで、それだけのものやはり、そういう大きな力を表すためには、やはり体が太く大きく豊かにならなきゃならん。お相撲さんたちなんかになると皆身体が人よりも一倍大きい。それでいて鍛える。
だからいよいよ力が出せるんです、こうまくしてから、そしてちぃそうて、そして痩せきれておって(笑)力を望んだところで、大きな信心をさせて頂くというてもそうです。ですからどうしても一つ、自分と思いを一つにする、同心の人達と図り、又は一家勢を揃えた信心をさしてもらい、しかもその同心の者が、いよいよ大きな信心を目指して大きな祈りに立たしてもらう、と言う事になればいよいよ大きなおかげが頂かれる。大きなことを願ったからというて、大きなことが、すぐ頂けると言う事ではない。
昨日本部の方から「新年に思う」という、今度はいつも教主様がお話になっておられましたですね、元旦に今度は教監がお話になるよう。それをこういうまあおそらくこれと同じ一字一句違わんようにお話になるでしょうが、私はこれをちょっと見てから驚いた。(笑)驚いたというが、昨日、研修の時にそのことを話したことでしたけど。教監が合楽の、まあいうなら「おかげの泉」やら新聞やらを読みよんなさるじゃろうと、言う様な言が書いてあるんですね。
これはいつもそうなんです。全教一新、全教一家の実があがって行くことのために、いよいよその信心の内容を深めていかなきゃならない。百年祭を間近に控えて、それをいよいよ成就することのために、スローガンが出された。「御取次ぎ成就信心生活運動」と言った様な、その例えばあのために合楽で、ま年々取り組んで来ておる、その合楽でのスローガンが、丁度本部では一年遅れに、言葉は違いますけれどもね、あの同じ内容のことが願い出されておるです。
だから合楽の真似してござると(笑)じゃなかろかと言う様な感じ。最近私が「お道の信心は願いの信心。もうこれが最高だ」という風に説いておりますね。その様なその事が書いちゃる「神信心と言う事は、神様に願うと言う事で、それは自分自身を見つめていくものでもあります」本来神信心とは願うと言う事だと、と言う言をこういう第一にあげられておるというのは、今まで聞いた言がなかったですね。金光様の信心は何処までも、まあお礼と言う様な、御礼神恩いうなら報謝の信心を説かれるですね。
けれどもお道の信心、信心は本来願いの信心です、願うと言う事だと。和賀心天地書附に出てくる和賀心というのを、和らぎ賀ぶ心だという風に表現されておるのも珍しいですね。和らぎ、いろいろに説かれますけどね、和らぎ賀ぶ心を持たしてもらうという。それからもう一つここにある。「心一つで世界の中が変わるなどとは、心一つで世の中が変わってゆく、みんながその気になれば」という、ここで心一つですべてを創ると、もう去年あたりから言ってますよね。
ほんとにここんところが分かったら、金光教の信者、信奉者も素晴らしいんです。人が、よその御ひれいが立ちよりゃはがゆうしてこたえんごたある心でおかげの頂けるはずはない。すぐどうか言やあプリッと腹が立つこたあることじゃおかげにゃならん。神様が分かりゃ、いっちょん心配はいらんとに、ただ心配ばっかりして右往左往しておる。これではおかげにならん。それこそ心一つでというのは、そういう和らぎ賀ぶ心というか、なら今日の御理解で言うなら豊か大きな心と言う事なんです。
心一つで全てを創るのです。またそれとは反対に心一つですべてを壊す。だからまあ今までは、あの心まあ教団で中央んなる人達がようもあの腹を立てておられる、あれを見ますねいろいろ。もうはがゆうしてこたえんと言った様なのが新聞に出とりますよ。こげなこっちゃいかん、こげなこっちゃいかんと言った様な。だからあげな心では、いうならば心一つですべてを創るという反対ですから、もう心一つで神様の働きをいわば壊してしまいござるという感じです。
ほんとに心一つで全てを創るというのは、豊かに大きなしかもそれが和らいでおるのであり、賀びであるという心。そういう心を私共がいよいよ目指さしていただくという心から生まれてくるおかげ。それを心一つで全てを創ることになる。誰でも大きなおかげを頂きたいと思う。だから大きなおかげを頂かしてくださいというなら、ならまず大きな、いうなら信心をさして下さいと言う事になる。
なら大きな信心とは、どう言う事かというと、いうならばいよいよ大きな心、豊かな心ちょっとやそっとで、いわば迷いなんかの起こりようもない程しの信心。そう言う事になるですね。昨日私は或る方のお取次ぎをさして頂いて、私自身もほんとに信心ちゃ極めに極めて行かんならんもんだなと言う言を思うた。或る方が今までは大変心に掛かり、何か心の何か呵責というか、良心的に苦しまんならん様な、けれども中々生身を持っとる人間であってみれば、その神様の心に叶わん様な事も沢山しておる。
ところが最近、合楽ではすべてのことに御の字を付けてとこう言われるが、もうこれでもう日々救われておるというお届けをなされました。「はあ、こんなことと思うておったことんでも、いうならば御の字を付けて頂いとります。だから心がサバサバとしておる。ほんとに素晴らしい教えだ」と。ほんとですもんね、自分の心に、引っ掛かる、それこそおかげは和賀心にありで、自分の心次第であって、同時に、我が心で犯すこともありゃあ、払うこともある、同じことでも。
自分の心が嬉しい、自分の心が有難くなる、同じ事柄であっても自分の心の受け方次第では、それがご無礼にもならなけりゃ、ご無礼に成る様な事がご無礼にもならんで、かえってお礼の対象にすらになると言った様な事なんですね。ですから心にいうならそのまあ良心的苦しみがなくなったとこう言うわけなんです。ほんとですもんね、もう素晴らしいことですよ。成行きを尊び、大切さしてもらう、全ての事を合掌して受ける、また全ての事柄に自分たちが成しとる言うておる。
行うておることの上にでも、それこそ御の字を付けて頂けばおかげになる。心がいうならばま呵責に苦しまんで済む。ほんとに素晴らしいことですよと、いうてあの私そげん言わしていただいておりましたら、御心眼に頂くのがね、『御の字という字を大きく書いてですね、そしてその礼、御礼という、礼という字が礼という字に読まれんような小さい字で、しかも崩してあるからこれは礼という字に読まん、自分な礼の字のつもりじゃろばってんという字』を頂くんです。
御の字を大きく、だから御事柄とか、御の字を付けてさえ頂けばというだけならば、そういうことになるです。だからこれで例えば自分の心の呵責、苦しみはないかもしれんけれども、信心が進展はしない。またおかげには伴わないと言う事です。ただ自分の心が、いうならまあ今の言葉で言うなら、ドライになるというだけです。人間じゃからこんくらいのことは当たり前、その当たり前と思う、思うその心に御の字を付けとるようなもんです。だから今の言葉で言うと、そのドライな行き方と言うのです。
割り切って行くだから割り切って行くと言う事も、いうなら楽な行き方ではありますけれども、それでは信心は進展しないと言う事です。進まないと言う事なんです。そこでですなら御の字を付けて頂くと言う言が有難いならばです、ほんとに有難い教えを頂いたもんじゃある、全ての事に御の字を付けてと。本当に素晴らしい教えを頂いた、心が救われる助かると。ほんだら本当に心が救われ助かる、御の字をもって有難いと思うならば、それに匹敵するだけの御礼の信心がでけなければいけないと言う事なんです。
そん時に初めて、信心が進んで行くのです。御という字だけは、立派に大きく書いてあるけど、その礼という字は、これを書いたつもりであるけども、小さくて、しかも礼という字に読めるか読めないか判らない。ほんとに御の字、この御理解頂いて心が救われます、有難いことです言うとるだけでは、礼が礼にはならんということだと思うんです。ですから私どもが信心を一歩一歩高めてゆく。
一歩一歩、いうならば大きくなっていかなきゃならない。その大きくなっていっておる実証は、自分が有難いと思うその有難いという心が、御礼の信心になって初めて自分の信心がそれだけ大きくなっていきよるんだ。いわば大きな信心の中身をしっかり頂いていくということなんです。合点がいくでしょう、皆さん。大きな信心、大きな、口で言うのだけならどげな大きな信心でん、それこそ天下国家のことまで願われる。
願われるね、そして自分は大きな信心をしておる言った様な事では、なら大きな信心と言う事には、大きなおかげが伴わなければ大きな信心じゃない。一番初めに申しましたように、大きな信心とは迷いが起こらん。神様を信じて疑わない。いうならそこに一心と定めて、大きな信心を願い、大きな信心を目指させていただく。痩せきれた、いうならば心で、大きな心とは言えない。
痩せきれておる肉体で、そしていくら気張ったところで大した力は出ないように、まず豊かに大きく肥え太ることを願わしてもらわなきゃあならない。その太っておるか、豊かになっておるかということをです、確かめていく手立てがです、すべてのことを御の字で頂く、付けて頂くという時に、信心が非常に大きくなります。それを悪く取ると、ドライになりますけども、それを有難く頂いて、礼の方がそれに伴うていくならば、もう必ず信心がそれだけ進展したのであり。
大きな信心がそれだけそこに、確かな大きな信心に育っていっておると言う事になるですね。昨日の御理解を頂いた後に、久留米の佐田さんが、ここでお届けをされますのに、「もうほんとに、親先生、もういつも毎日のことですばってんが、御理解がほんとに昨日から今日にかけて、思うておること言うておること、それがあの御理解によって、はあ間違っていなかったと言うて、いつもこう自信を付けて行くわけですけれども、丁度丸少の感謝の夕べの帰り道々、主人と二人で話して参りました。
三人の子供がもうほんとに合楽へ合楽へと、合楽通いをああしてしとるが、もうほんとにお父さん、もうこんな風で子供が育ってさえ行ってくれりゃあ間違いがないですね。ほんなこつもう、子供たちが、合楽、合楽と言うてくれとておる間は、親も心配ないと言うて、その話を帰ってからも、それをし続けて、今朝の御理解頂いてから、はあほんとに間違ってなかったと思うた」というお話でした。
子供が「合楽、合楽」と言うてから勉強もせんな、これででよかじゃろか成績はどうなるだろうかと、もうそげな心配しとると言う事は、もう既に合楽を疑おうておることであり、神様を疑おうておることだと、昨日の御理解は頂きましたですね。子供たちをまやるとはよかばってんが、あげな遊びのみちばっかり覚えちから、笛どん吹いたりラッパどんばっかり吹いたっちゃなんにならん。絶対そうじゃないて。
高橋さんの挨拶にあったように、そういういうならグループ活動と言った様な所からお育てを頂くと言う事はもう大変なこと。しかもそれが信心合楽と言う事でくくられておる時に間違いがない。私は大きな心とはそういう心だと思うですね。有難そうに信心はしておる、有難いともまた思うてもおるけれども、さあ子供のことんなると丸少に出しもきらんじゃないか。勉強がおろそかになっちゃならんからと言うて。
例えばんなら勉強おろそかになって、なら一年二年落第しかというて、学校に例え行けなかった、問題はどう言う事かと言うと、勉強させるも学校にやるも、この人が幸せになると言う言が焦点でありましょう、と私は思うです。技術を身に付けさせるでも、この人が幸せになる。だから幸せの鍵を握ってござるのは、天地金乃神様だと言う言が分かったらです、そげな事問題じゃないて。子供が心を例えそりゃ遊び半分の様な感じで「合楽へ、合楽」と言うておっても、合楽と言うておる間は間違いがないて。
それを信じて、なら夫婦で例えば話し合っておられる、なら私はその心が、今日の御理解で言うと大きな心だなあ、大きな心とは神様を信じて疑わない、そこから生まれてくるものでなからなければ大きな心とは言えない。どうでも一つ大きな信心を、大きな信心が良いと、一心と定めいと仰るんですから、一つ一心と定めて大きな信心をいよいよ願い、なら小さいとが、一遍にボーンと大きくなると言った様な事はない。いかにもそげんとは大きいことあるばってん、それ水膨れごとあるとじゃ。(笑)
ちょっと触ったらピシャーッと皺になってしまうと。そげんとじゃいかんでしょうが。ほんとに筋肉になって、それが隆々とそれ筋肉にもなり、太りもする大きくもなって、そしてそこに精進をする。そこに一生懸命頑張る。だから力が付くのです。それこそいよいよ「信心の道を迷わず失わず、末の末までも教え伝えよ」と仰る。末の末まで教え伝えられるためにも、私どもが信心の道をもっと確かなものにしていかなきゃならない。その確かなものであるかないかと言う言を。
例えば今日の御理解を頂いて、自分の心に頂いてみると、はあ自分の有難いと思うておるけれども、成程こりゃほんなもんじゃないな、お礼が足りない。御の字だけは大きく付けとる。けれどもほんに礼というのがあるやらないやらわからんような状態。自分の大きな信心と思うておるけれどもね、大きなおかげが伴わないならば、そりゃ大きな信心じゃあない。まあいろいろな角度から大きな信心を、今日は聞いて頂いたんですけれどもね。いよいよ一歩一歩大きな信心にならせて頂く、それを確かめながら信心を進めて行きたいですね。
どうぞ。